正道術に関連した新聞記事および雑誌などの情報や文献を整理考察し、正道術に関連した人物との口述や面談を通した研究を記載した。 正道術1は由来と草創期の安一力氏の活躍。正道術2は安吉源氏の活躍と日本の活動内容、正道術3では正道術の実技の概要を掲載する。
圓和道錬武館2020
正道術の由来
正道術「チョンドスル(정도술 jeong do sul)」は、韓半島において檀君から四千三百年の歴史と共に今日に残る“道人”(秘境で修業する求道者・仙人)が修業し伝承してきた道術と呼ばれる武術です。韓国では、一般的武術とは区別して“道術”と呼び、正道術も道術の一つに数えられています。
安 一力氏と 安吉源氏
韓国には道術についての民話が数多く残り、それらに共通することは、道術家達は常に正義の味方として風のごとく現れて悪者を征伐し、風のごとく去っていったということです。民衆は道術家を見て、彼らが単に高度な武術の使い手であるだけでなく、高い理想をもつ正義の人であり、風や雲さえも自由に動かすことのできる神秘的な力をもった仙人のような人物として描いてきたのです。
また、歴史的文献を通してみれば、檀君神話から天孫思想の祭天之道があり、高句麗、百済に達しては尚武精神の武士道として継承されました。新羅においては国仙道および花郎道で引き継がれ、長い歴史と共に連綿として継承されています。それと同時に開国の祖は、主に武術で先住者たちと闘い、国家成立の三要素である国土、国民、主権(王)を得たのです。
また玄妙な”祭天之道”は先史にて詳細に知られる通り、儒教、仏教、道教の三教さえも民衆の中で昇華させていきます。天と自然を祀る「道」の思想は韓民族の強靭な民族的生命を培って、今日に至っていることを知ることができるのです。韓半島における国家興亡史においても、国家の防衛や規律の確立のために祭天之道である”道術”が用いられてきました。
「道術」は約千二百年前の統一新羅時代の花郎道を起源とする説もありますが、李氏朝鮮時代に二百年間の空白があったとされ、現代に至っては韓国の安一族の秘伝の道術として、書物ではなく、親が子に伝えるという形で遺伝されてきたのです。
安家に伝わった道術
安一力氏
正道術は順興 安氏の家伝武術で、本来は代々の初孫にだけ伝授されたと伝えられています。
安 福用「アンボギョン(안 복용 an bog yong)」1877~1956、祖師は全羅北道の将軍峰に十年間を籠って、その奥義を極め体恤しました。
後に、この道術は息子である安 判童「アンバンドン(안 판동 an pan don)本名:안 도규」に引き継がれ、安 判童は韓国独立運動の闘志として成長していきました。
当時、道術が独立運動の武器として用いられたとして、全羅北道高敞郡地方の警察署は判童の逮捕令を出し、安の家を急襲しました。
その時に畑に出ていた判童は、警官隊の包囲網を激しい格闘の末に突破し、辛うじて窮地を脱し満州に逃れたのです。
その一部始終を納屋の中から見ていた安 判童の息子である安 一力「アンイッリョㇰ(안 일력 an illyeok)本名:안 길중」1933年〜1996、少年はその時に『アボジ(お父さん)、僕が道術を受け継いでアボジをいじめた日本人たちをたたきつぶします』と決意して、「強い道人」になることを硬く天に誓ったのです。
残された安 福用 祖師は当時七歳の孫である安 一力少年を1941年から1948年まで七年間を全羅北道 高敞郡 禅雲寺後方にある将軍峰を中心とした一帯を修練場にして、日帝下では倭警の目を避けながら道術の秘技を伝授されました。
幼い一力少年は厳しい訓練の中、滝に打たれ、祈り、山菜を食し、岩を打ち、木を蹴り、岩壁をかけ登り、崖から飛び降り、飛びくる自然石を鉄拳で粉砕し、秘伝空中三段蹴りを体得したのです。
安 一力氏が、祖師から学んだ時は、単に“道術”として習っていました。正道術と名付けられたのは、祖師から遺言として『この道術には名前だけあって性がないから私が習った武術の性を定める。これからも正しい目的のために用いるようにしなさい。“正”を付けて“正道術”と呼びなさい』と言い残したことに由来しています。
「正」は気概を育てる武術の“基本目標”を意味し、「道」は“戦略”であり、どのような状況と条件の変化があったとしても他に変化させられない氣を養います。「術」は状況と条件の変化に敏感に適応しなければならない“戦術”を表しているのです。
やがて終戦とともに韓国が独立しますが、安 一力氏は六年間の軍隊生活を終えて、志を立てソウルに出て苦しい生活に耐えながらも弟子たちを集めるようになります。道場も一つ二つと増やして正道術の基盤を固め始めました。
そうした中、一つのエピソードがあります。李 承晩政権時代の治安が悪かった頃、町でパンを売っていたおばさんがいて、そのパンをヤクザが黙って取って食べていたところを、通りがかった一力氏が見かけました。その時、一力氏は田舎のお母さんが頭に浮かび、そのおばさんをかばってヤクザとケンカになったのです。
たちまち回りにいた仲間のヤクザたちも集まって、一力氏対五十人くらいのヤクザたちとの闘いになりました。一力氏はブロックで囲まれていた運動場の塀を破り、その中で傘一本を持って闘ったのです。翌日の新聞には誰がやったか分からないけれども、その場には二十七名が起き上がれない状態で倒れていたと書かれていました。逃げた人を数えると、やはり五十人くらいだったということです。
このような闘いは当時、道場破りなどが大勢でやって来たりしたので、一度や二度ではなかったのです。
もう一つは、一力氏が「すごい高さから飛び降りる技をやる」という噂を聞いたある武道家が、対抗意識を燃やして「自分にも同じようなことができる」とやって来ました。それで一緒に十五メートルの高さから飛び降りたのです。
一力氏は平気だったのですが、挑戦して来た武道家は地に着いた瞬間、足の付け根が体に刺さって即死してしまったのです。
その他にも屠殺場に行って牛を素手で倒し、眉間への一撃で倒したと言われています。
道術というのは韓国の民衆の間に古くから伝えられている武術です。昔は山に篭って仙人のような生活をしながら、修行を続け、世の中が乱れてくると山から下りて来て、これを治めて、また山に帰って行くというものでした。
今でもそのような人がいると聞いています。一力氏が学んだ道術もその流れを受けた一つなのです。一力氏は修行生活の中で仙人によって高いところから飛び降りる術を教えてもらったと言います。
安 福用 祖師から受け継いだものや啓示を受けた技を一力氏が体系化して正道術を創設しました。その中には一力氏自身が生み出した寅の術や酉の術があります。その技は動物の戦う姿を実際に見ながら相当に研究されたことがうかがえるのです。
そうした努力とともに何と言っても、韓国民に対して正道術を強烈に印象づけたのは、1955年4月、ソウルの陸軍体育館(現在の奨忠体育館)で行われた中国対韓国の武術対抗競演大会の時でした。
いよいよ大会の最終日、優勝決定戦で中国十八技(シッパルギ)の名手と対戦。一方的な試合運びで一力氏は正道術の神髄を見せるために、必殺の空中三段蹴りを放ちました。一力氏の飛び蹴りは水平に飛びながら放つ蹴りではなく、垂直に真上に飛び上がりながら、上から真下に体重を掛けながら蹴る、飛び蹴りなのです。
その蹴りは相手の喉元を襲い、地に降り立つまでに腹にも蹴りをたたき込んでいたのです。とうとう相手の拳法家は戦意を喪失して、試合を放棄するという見事なTKO勝ちを収めたのです。
その時の様子が翌日の新聞で報道され「正道術強し」と書き立てられ、その評価は全国に広がっていきました。しかし、その評価の内容は、まちまちだったのです。
『・・邪拳である。いや真正の武術を見た思いがする。・・彼(一力)の人品は卑しい。いやこれこそ武道家たるもの』。
とにかく騒々しかったのですが、一力氏には信念があったのです。『武術は生死をかけた戦いをしなければ“道”にまで至らない。スポーツでは、しょせん求道にはなりえない。正道術は生死のぎりぎりの境で、人の生きる道を体得する方法なのだ・・』というものです。
1955年祖父が他界し、遺言で正義のために導術を使うようにと「正」の字をつけ正道術と名乗るようになった。1958年にソウルへ移動。当時、安 一力氏は白頭山のトラと呼ばれていたが、たけだけしい虎のような 一力氏に、もう一回だけ人生の大きな転機が訪れたのです。1966年、それはキリスト教との出会いでした。ひとりの愛弟子が教会に通い出したのがきっかけで、安 一力氏は教会を訪ねることになったのです。
正道術の目指す目的は人格形成です。最高の奥義は「大明術」と言う術ですが、これは無我の境地を意識的に自分で作り出すことです。相手の心を自分の心に鏡のように写し出して見抜き、相手を制するのです。
ただ強さだけでは技だけを盗まれて、往々にして分派が広がっていくだけです。正しい理念を持ち、年を重ねながら修練や闘いの経験を通して、いったい何を悟って行くかが大切です。武道とは真理を体得することなのです。
1967年3月、安 一力氏が牧師に初めてお会いした時、牧師の人物を試そうとして渾身の力を込めて気合をかけてみたところ、牧師は少しも動ぜず、「どうかしたの」とばかりに一瞥されただけであったといいます。
この牧師は自分では計り知れない霊的力があり、高い境地におられる方であると悟らされました。又、キリストの教えである「恩讐を愛する真の愛」に感銘を受けたのです。
生い立ち時に味わった家族と民族の苦痛と屈辱が『恨』となり、正道術は安家の秘伝であり、11項目あった安 福用 祖師の遺言に「君が習ったこの正道術を一切の他人、特に日本人(倭人)に伝えてはいけない」と堅く言われていたのです。正道術を日本人に伝えることはキリストの教えがなければ全く不可能なことでした。
その生き方の変化は「えっ、安 一力先生がキリスト教会に。よしてくれ。うちの先生はケンカ一力だよ。アーメンじゃサマにならない」と、近所の人から笑われるほどでした。
しかし、この時より、安 一力氏は積年の民族的な※1『恨』を乗り越え、世界平和実現の旗手となるための正道術(祖師の遺言の「正義と平和の旗手として伝授する」)として、これを広めていくことを決意したのです。国内はもとより、一番の恩讐である日本、そしてドイツ、アメリカ、アフリカにも指導員を派遣して国際交流を深め、天が公認された武道として正道術の普及に努めました。
※1『恨』한( ハン)は「怨み」ではない。日本の武士道では仇討ちにより本懐を果たすと「怨み」は消えるが、韓国の「恨」はそれでは消えない。望み、理想、愛が叶わなければ「恨」は消えない。天を知る道は「恨」を知る道でもある。悠久な人類史的な『恨』を解くことは天の心情を知り、天を慰労する”祭天之道”に繋がるのです。
正道術本部道場の看板
ソウルにある正道術の本部道場には牧師が揮毫した『正道術中央修練館』の看板が、修行に汗を流す修錬生たちを見守っている。
この本部を中心に正道術は、道場数七、総支部数30、門弟10万人を数えるにいたりました。
世界正道術協会の安 一力会長は、「大韓民国武術総連合会(約六十の武術団体が加盟)」の理事長(後会長)も兼任されており、文字通り韓国武術界の第一人者となったのです。
安 一力会長 略歴
1935年7月5日(陰暦6月5日)は戸籍上の誕生日。実際は1933年5月9日(陰暦4月15日)
1948年 軍隊に入隊
1953年 軍隊を除隊
1955年4月 中国対韓国の武術対抗競演大会優勝(陸軍体育館・後 奨忠体育館)
1957年ソウルへ
1958年5月23日 初めて正道術を世に発表・演武実施(ソウル孝昌公演・金 九先生墓地)
11月13日 正道術修練場設立、看板を初めて立てる(ソウル、西大門区鷹岩洞・軍用テント設置:安 一力 初代師範就任)
1959年10月9日 大韓正道術会館建設
1960年10月9日正道術1期生資格審査
1963年5月14日 正道術演武大会(進明女子高等學校講堂)
1975年9月12日大韓民国武術総連合会の創立及び武術人団体総力安保団結大会
1976年
2月14日 第一回全国武術大会(文化体育館)
3月27日 第一回全国武術大会(九徳体育館)
5月30日 第一回全国武術大会(群山如常体育館)
9月18日 軍部隊全国武術大会(陸軍第3551部隊)
1977年
2月17日 第二回全国武術大会(文化体育館)
9月14日 大統領指名招請演武(青瓦台演武場)
1978年〜継続 軍部隊 護国武術教育 (陸軍部隊)
3月18日 護国武術 指導(陸軍第2117部隊)
5月27日 第三回全国武術大会及び東南アジア親善武術大会(奨忠体育館)
韓国・日本・インドネシア・オーストリア・タイ・フイリピン・台湾・64名が参加)
第三回大会は、フジテレビで放映(司会:土居まさる)
日本から、剛柔流 範士 十段 山口剛玄・範士 九段 曺 寧柱 ・ 六段 山口剛史・ 五段 山口剛玉
9月17日 第三回全国巡回武術大会(江原室内体育館)
11月 5日 第三回全国巡回武術大会(光州室内体育館)
1979年9月19日 第四回全国武術大会(清州室内体育館)
1980年5月30日 第五回全国武術大会(奨忠体育館)
10月 9日 第11代全 斗煥大統領閣下就任敬祝大会(奨忠体育館)
1981年
7月25日〜26日 第六回全国武術大会及び身体障害者援助大会(忠州公設運動場・清州室内体育館)
9月19日〜1982年1月2日
第一回正道術100日修練会(日本より師範候補生参加 場所:正道術会館・山城修練)
1986年
8月 9日 総合演武場建立推進委員会発揮式(イースタンホテル宴会場)
11月15日 全国勝共武術大会(ソウル市学生体育館・蚕室)
1993年4月4日 新韓国建設新しい時代を向かえ全国武術大邱大会
1996年11月28日(陰暦10月18日)安 一力会長は逝去された。享年64歳であった。
韓国固有武術の家門秘伝であった”道術”を受け継いだ安 一力会長は、民族が呻吟し苦痛する中におかれても、愛国の精神で道術を更に研究、発展、昇華させ”正道術”として世に現し、その創設と普及に精進され、大韓民国の発展に大きく寄与致しました。
”大明術”を治め、宇宙の根源と霊的世界にも通じ、真の武術を悟り、人の道を正道術に大成されたのです。韓国の武芸人の糾合はもとより、世界の武道界に多大な貢献を残された実績は、真に光り輝く日と月と星でありました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
■大韓民国武術総連合会
武術総連合会は我が民族の伝統護国武術を保存・継承・普及・発展させる各種武術の開発及び保存のために1975年9月12日に創立した。
武術総連合会はその間、各種の武術団体を団結させ武術人達をして民族主体思想の確立と世界平和に寄与し、また、国民体位形成のために全国武術大会を開催するなど各種活動を展開しているのであり、祖国を守る国民達の体力と精神を修練させる国防武術の役割も果たしている。
また、武芸人の糾合及び親睦のために大韓民国武芸人同士会を構成し武術総連合会の発展及び、武術界の技術向上及び普及に努力している。
■全国武術大会 参加団体
正道術協会
会長 安 一力・総館長 安 吉源
正道術京畿道修練館
館長 崔 允道
正道術特修館
館長 金 虎翔
正道術江西修練館
館長 柳 大成
正道術安城修練館(京畿道)
館長 趙 正黙
正道術日本中央修練館(日本東京)
館長 梶栗玄太郎・副館長 源圭伸
合気道黒鷲館
総裁 陳 鍾文・館長 除 鎭浩
合気道全南連合会(全南)
会長 尹 世權
合気道太極館(光州)
館長 朴 東鎬
合気道国武館(光州)
館長 여 천현
大韓借力武術協会(釜山)
総館長 呉 東石
大韓圓力道協会(ソウル)
総館長 金 龍錫
館長 金 裕幸
館長 한 상복
道棒術協会(ソウル)
総館長 朴 鍾律
太極道協会(大邱)
総館長 田 光鎬
中国武術連盟
総館長 金 榮俊
梅花蟷螂協会
総館長 朴 英夾
功夫分科委員会
委員長 김 영준
小林拳法総館
総館長 김 갑현
文武打撃道協会
総館長 박영수
中国十八技武術館(釜山)
館長 박의호
大東総合体育館
館長 권오석
統一道協会(天安)
総館長 노명춘
한얼道総本館(ソウル)
総館長 최근호
大韓柔道大学武術部(水源)
監督 김 의영
特攻武術協会(成南)
館長 박 노원
蟷螂武術協会(ソウル)
館長 조 운산
大韓唐手道協会
総館長 김 창호
慶北飛龍館(大邱)
館長 정 용만
大韓キックボクシング協会(忠南)
館長 최 철흥
東洋武術研究会(ソウル)
会長 조 성길
宮中武術館(ソウル)
館長 원 유훈
国際뫄한뭐루協会(ソウル)
総館長 김융작
大韓仙術協会(ソウル)
総館長 김 재록
正武館総本館(釜山)
総館長 구 영한
少林武術唐手館(大邱)
館長 김 원석
合気道黒錘館(太田)
総館長 진 복문
合気道黒錘館(太田)
館長 서 진호
太極蟷螂門武術協会
総館長 김 시환
国防武術分科委員会
委員長 임 용인
写真や動画、情報が不足しているので、多くの正道術関係者に御協力をお願い致します。
正道術日本中央修練館 師範 石﨑公司
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