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天を知る巫道
フイリピンで撮影した天空の写真です。

 

 天を知る巫道

三ムの道とは、『巫道・舞道・武道』の三つ

 韓国語での武道は、「무도・ムド」と発音します。巫道・舞道・武道の三つは、各々が「무도・ムド」と同じ発音になるのです。

 『三ムの道(三무도)』は、巫道・舞道・武道の三つを意味し、天・人・地の三才を意味します。三才とは、中国・韓国・日本の東洋三国に共通する東洋思想の一つです。

天を知る『巫道』

 「三무」(サンム)の第一番目は、天を知る『巫道』です。天を敬い、愛する道ですから、『愛天』と同じ意味です。圓和道で最初に習う基本動作の一つである『回転攻防』は、비손(ピソン・祈手)から始まりました。

 

韓 奉器宗師は、

『圓和道の創始者は私では無い、我が民族が両手をこすりながら天に願う行為である、ピソン(祈手)を始めた時代からあったのです』と語られています。

 

 一日の始まりと終わり、一週、一月、一年の始まりと終わりに、両手を合わせて天に祈手を捧げながら天の門を開き、心を開き、反省と感謝、所願の祈りを捧げて来たのです。

 古代倍達族(韓民族)の祈手は、天を圓としてとらえて両掌を丸く円を描きながら擦り合わせ、体を前後にあるいは左右に揺らしながら祈る動作となりました。

 この祈手(ピソン)が、少しずつ形が大きくなって『回転攻防』と名付けられた動きとなります。この回転攻防を圓和道では最も重要な基本技としています。

 回転攻防は下から上に向かう上段回転攻防と上から下の下段回転攻防からなっています。

 腰の位置から上部に向かって始まる回転運動は頭上までは正円を描きながら上がって行きます。さらに頭上から下りてくる時には、肘の動きが加わり楕円となって腰の位置に戻って来ます。これが上段回転攻防であり、その正反対に上から下に向かいながら、同じ様な円の模様を描き回転させる動作を下段回転攻防と呼んでいます。この動きの模様は一回転で『太極円』となり、右手と左手を合わせた模様が正に『太極』となるのです。

 この回転攻防で特に重要なのは、『氣』を心に置いて心身を統一しなければなまりません。回転攻防は、人体の気脈の流れる道筋に沿って、腕全体で柔らかく丸い円を描くのです。「手」の位置により下丹田から中丹田、上丹田まで氣の力が全身に廻るのです。圓和道は氣を「練る」武道であり、天の氣と一つとなる巫道なのです。

愛天愛人愛国の揮毫

 

 圓和道錬武館には、道場訓の一つに『愛天・愛人・愛国』があります。これも各々が『巫道・舞道・武道』に通じています。天を愛し、人を愛し、国を愛する武道が圓和道なのです。そして、その全ては自分自身の『心身統一』から始まります。

 修練場所は心と体を一つにする為の道場です。本来ならば森や川、山や海がある自然の豊かな修練場所が道場に相応しい所です。

 また、『心身統一』のために修練の前後には瞑想を行います。深く静かな瞑想により、心身に『天の氣』を感じ、深い心の世界(霊的世界)で悟るのです。心身一体により心と体が天に通じ、人に通じ、地に通じることにより、神人愛一体の理想が成し遂げられるのです。

 圓和道の修練道場は天心を悟り、天意に従い、心身を天に捧げる神聖な時間と場所になるのです。ですから天に対する礼が必要であり、人に対する礼が必要であり、地に対しても礼をささげて、感謝する心が必要になるのです。圓和道の道場は礼節を学ぶ場所なのです。

名古屋の女性修練生が二人笑顔でポーズ

たったひとつの地球だから・・

虎の写真
日本の日の丸と韓国の太極旗
熊の写真

檀君神話・古朝鮮

 昔、天の国に住んでいた桓因(환인・ファニン・かんいん・帝釈天の別名)は、天の下の人間の世を気にかけていました。

 桓因の庶子であった桓雄(환웅・ファヌン・かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天の息子としての証拠である天符印を3つ鏡・剣・鈴)与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山といわれる)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り立ち、そこに神市という国をおこすと、人間の地を360年余り治めました。

 

 さて、ある時一つの洞窟に一頭の虎と一頭の熊が共に住んでいました。この虎と熊は人間になりたいと思って、桓雄に訴えたのです。懇切な訴えに桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個を二匹の動物に渡して、「これを食べて100日の間太陽の光を見なければ人間になれるだろう」と言ったのです。

 

 ところが、虎は我慢ができなくなり投げ出して人間になることは叶わなかったのです。しかし、熊は言いつけを守り、21日目にきれいな女の姿『熊女』に変わりました。女になった熊は、毎日、神壇樹の下で、子どもを生めるようにして下さいと祈り続けました。それを見た桓雄は男の姿に身を変えて熊女と結婚し、子供を授かりました。この子が檀君(단군・タングン・だんくん)なのです。

 檀君は紀元前2333年に平壌を都にして、国名を朝鮮と呼びました。日が昇るところ、という古代の朝鮮語です。

 古朝鮮という名称は李成桂(이성계・イ ソンゲ)太祖が決めました。李氏朝鮮(1392年 - 1910年)の始祖が朝鮮王朝を建てたので、後に二つを区別するために檀君の朝鮮を古朝鮮と呼ぶようになりました。

 

 檀君はその後、1500年間、朝鮮を治めて、アサダルの山に入り、山の神になったといわれます。そのとき1908歳だったそうです。

夫余(扶餘)国

建国神話

論衡』吉験篇に次のような記述がある。

 「昔、北夷に橐離国(たくりこく・고리국・コリクッ)があった。国王が侍女を妊娠させてしまったので、殺そうとした。侍女は『以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身ごもりました。』と言い、王は騙された。

 その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。

 東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈(すっぽん)が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった」という記述がある。

 『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖である朱蒙も夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、高句麗を建国した話が載っている。

『三国史記』『三国遺事』には、解夫婁(해부루・へブル)王が治めていたがのちに太陽神の解慕漱(해모수・ヘモス・朱蒙の父とも伝わる)が天降ってきたので解夫婁は東に退去して別の国(東夫余)を建てたという。

 

 高句麗の建国説話によれば、始祖の朱蒙は河伯の娘(柳花・ユファ)が日光に感じて生まれ、夫余王に養われて成長したが、その王子らに憎まれたので、迫害を避けて南に逃れ、高句麗を建てたという。

 夫余、高句麗、百済の建国伝説は、各国の始祖が生まれた国で迫害を受けて逃亡し、大河を越えて新しい土地で王となるという構成において全く一致している。高句麗、百済、新羅の三国は同じ夫余から始る血を分けた兄弟国家であると考えられる。

 夫余国は太和18年(494年)に勿吉(もっきつ)に滅ぼされた。勿吉は、中国の南北朝時代に、高句麗の北から満州地域に住んでいた狩猟民族で、現在の松花江から長白山一帯に居住していたと思われる。粛慎・挹婁の末裔で、唐代における靺鞨の前身である。

世界最古の金属活字の印刷本

世界で初めてとされる金属活版印刷本

​ 世界最古の金属活字の印刷本である「直指心体要節」が50年ぶりに公開される。

フランス国立図書館によると、4月12日(現地時間)から7月16日まで同図書館で開かれる展示会で「直指」を公開する。

同図書館は展示を紹介する文で「印刷が発展してきた歴史と成功のカギに迫る」とし、「金属活字で印刷された世界最古の作品である『直指(韓国、1377年)』を展示する」と説明した。

 

直指の正確な名称は「白雲和尚抄録仏祖直指心体要節」。

清州(チョンジュ)古印刷博物館が運営するサイト「直指グローバル」によると、1900年にフランスで開かれたパリ万博で、初めて一般に公開されたという。

その後、1973年フランス国立図書館で開催された「東洋の宝物」という展示を最後に、公開されたことがない。

文化財庁と同博物館によると、直指は1377年(高麗時代)、忠清北道(チュンチョンブクト)・ 清州の興徳寺で金属活字で刊行され、上下の2冊になっているとされる。

現在、「下」のみ、フランス国立図書館が所蔵している。

直指は、韓国の印刷技術の優秀性が分かる文化遺産で、1455年のグーテンベルク聖書よりも78年前のことになり、世界最古の金属活字本である。2001年、ユネスコ世界記録遺産に登録された。

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